2011年1月15日土曜日

関ヶ原の合戦を検証

 関ヶ原の合戦に特化したムープロで、通説とは違う合戦の
経過を再現してみようと思う。

 慶長5年(1600年)9月15日

 西軍は関ヶ原に鶴翼の陣で布陣した。

 陣形には、武将がどこでも勝手に布陣していいというもの
ではない。

 中央には総大将が布陣することになっている。そこに宇喜
多秀家が布陣したことで、この合戦の総大将は秀家になった
ことが分かる。

 秀家は若いが、豊臣秀吉の養子で、五大老のひとりでもあ
ることから、総大将にもっともふさわしい。

 通説では、毛利輝元を西軍の総大将としているが、毛利家
は秀吉を恨むことはあっても、豊臣家を守る義理などさらさら
ない。

 西軍に属する武将が多くいる西で、東軍に味方すると言え
ば、その時点で袋叩きにあう。だから加藤清正のような勇将
でもない限り、西軍のフリをしたり、態度をはっきりしないの
は当たり前で、毛利輝元は、秀吉から西の統治を任されてい
たことから、一応、豊臣秀頼を守るという名目で、一番安全な
大坂城に入ったと考えるのが自然だ。

 陣の左翼側には石田三成、島津義弘などの武将が布陣し
た。

 これも通説では、石田三成を首謀者としているが、西軍が
三成に期待したのは何か?

 三成は戦ではもっぱら軍資金や兵糧の調達に当たってい
て、あまり勇将のイメージはない。

 この時の西軍も石田三成の集めた軍資金や兵糧があっ
たからこそ、天下分け目の合戦に参加する気になったのだ
ろう。

 陣の右翼側には大谷吉継などが布陣した。