2011年1月29日土曜日

小早川秀秋の無血入城

 西軍・伊藤盛正の少数部隊が布陣した松尾山城は、ほ
とんど無防備の状態だったと考えられる。それほど西軍
に味方する大名は少なかった。

 だからこそ病気を理由に出陣していなかった小早川秀
秋の部隊、兵15000人がやって来た時は、心強い援軍
が来たと思っただろう。


 秀秋は、もとは豊臣秀吉の養子で、西軍の伏見城攻め
にも加わっている。

 城攻めというのは時間がかかり、将兵に多大な損害が
でる。
 最初から東軍に味方するためにやって来た小早川秀秋
は、伊藤盛正に勘違いをさせておくことが、無用な闘い
を避け、南宮山の毛利部隊を孤立させて西軍に寝返れな
くし、この戦の勝敗を決定づけることにもなる。

 伊藤盛正は、相手が大部隊でもあり、抵抗することもで
きず、あっさりと城をあけわたした。



 兵法を知らない人には、まったく理解できないだろうが、
西軍に味方すれば、豊臣家を守ることになると単純に考
えるのは間違いだ。

 戦に勝つほうに味方し、存在感を示すことが重要で、そ
の目的を達成しない戦は、ただの人殺しにすぎない。

 小早川秀秋が松尾山城に無血入城したことで、東軍に
味方することは分かったはずで、東軍の勝利は確実なも
のになった。

2011年1月22日土曜日

松尾山には城があった

 関ヶ原の合戦を扱った映画やドラマでは、小早川秀秋が
布陣した松尾山は、何もない広場のような所に陣幕をはっ
ただけになっている。しかし、この山には城があった。
(下の画像では城の骨組みだけになっているが、本当はちゃ
んとした城があり、周りは土塁で囲まれていた)


 松尾山城は過去、浅井長政が築城した後、織田信長の
近江侵攻で開城した。そして近江平定後に廃城となってい
た。西美濃最大級の山城だったといわれている。

 たんに山に布陣するのと城に入るのでは、意味がまっ
たく違う。この城に西軍が籠城したのでは、双方にもっと
多くの戦死者が出て、長期戦になっていた可能性がある。

 映画やドラマでは予算がないから、城や土塁を再現しな
かったのだろうが、これが今日まで歴史を間違ったまま伝
えることになった。

 合戦が起きる前に石田三成は、この城を西軍の伊藤盛
正らにより改修していたことから、この地が決戦の地にな
ることは、早くから想定していたと思われる。当然、長期戦
になることを考えて兵糧や軍資金なども運び入れていただ
ろう。

 西軍としては、この松尾山城に毛利輝元を入城させるつ
もりだったのではないだろうか?
 ところが輝元は大坂城から動こうとしない。

 輝元の名代としてやって来た輝元の養子、秀元と吉川
広家の部隊は東軍側にある南宮山に布陣した。

 西軍はしかたなく、伊藤盛正の少数部隊を布陣させた。

2011年1月15日土曜日

関ヶ原の合戦を検証

 関ヶ原の合戦に特化したムープロで、通説とは違う合戦の
経過を再現してみようと思う。

 慶長5年(1600年)9月15日

 西軍は関ヶ原に鶴翼の陣で布陣した。

 陣形には、武将がどこでも勝手に布陣していいというもの
ではない。

 中央には総大将が布陣することになっている。そこに宇喜
多秀家が布陣したことで、この合戦の総大将は秀家になった
ことが分かる。

 秀家は若いが、豊臣秀吉の養子で、五大老のひとりでもあ
ることから、総大将にもっともふさわしい。

 通説では、毛利輝元を西軍の総大将としているが、毛利家
は秀吉を恨むことはあっても、豊臣家を守る義理などさらさら
ない。

 西軍に属する武将が多くいる西で、東軍に味方すると言え
ば、その時点で袋叩きにあう。だから加藤清正のような勇将
でもない限り、西軍のフリをしたり、態度をはっきりしないの
は当たり前で、毛利輝元は、秀吉から西の統治を任されてい
たことから、一応、豊臣秀頼を守るという名目で、一番安全な
大坂城に入ったと考えるのが自然だ。

 陣の左翼側には石田三成、島津義弘などの武将が布陣し
た。

 これも通説では、石田三成を首謀者としているが、西軍が
三成に期待したのは何か?

 三成は戦ではもっぱら軍資金や兵糧の調達に当たってい
て、あまり勇将のイメージはない。

 この時の西軍も石田三成の集めた軍資金や兵糧があっ
たからこそ、天下分け目の合戦に参加する気になったのだ
ろう。

 陣の右翼側には大谷吉継などが布陣した。

2011年1月8日土曜日

パーティクルは使える

 キャラを2000体表示させることを優先したため、静止画
となり、物足りなさを感じるが、試しにパーティクルを使って
みると、意外と面白いものができた。
 下の画像では大砲の弾のように見えるが、これは火箭の
閃光と爆発を表現したものだ。

 関ヶ原の合戦では、大砲が準備されていたといわれている
が、当時の天候は暴風雨で、その後、濃霧になる。戦闘の
終盤では晴れたかもしれないが、大砲の威力はそれほど発
揮できなかっただろう。
 ところが大砲よりも強力な武器を準備していた可能性があ
る。
 西軍の多くの武将が朝鮮出兵に参加し、明・朝鮮連合軍の
利用した火箭という、現在のロケット弾のような武器で攻撃さ
れた経験をしている。
 日本は朝鮮から陶器や鋳造の技術者などを拉致してきた
ことが知られているが、火箭などの武器を作れる技術者こそ
もっとも重要な人材だったはずで、拉致してきた可能性は高
い。
 その証拠に関ヶ原に近い地域では、現在でも「龍勢(流星)
祭り」として自家製ロケットを打ち上げる祭りが行われている。
 これが火箭を平和利用したものだ。
 関ヶ原の合戦でも、石田三成が、毛利軍や小早川軍に出
撃を促すために、火箭を狼煙がわりに利用したといわれて
いる。ただ、生死がかかっている合戦で最強の武器を狼煙
がわりにするだろうか?
 島津軍は、石田三成と意見対立があり、出撃しようとしな
かったとされているが、火箭を発射させていたとすれば、出
撃する必要はない。
 毛利軍、小早川軍が出撃せず、劣勢だったはずの西軍が
こう着状態までもちこんだのは、この火箭の効果があったと
思われる。
 こうした今までの通説の間違いを正すためにもムープロの
ようなソフトが必要だと思う。

2011年1月1日土曜日

作り替えたムープロソフト

 ポリゴンCGを300体表示するムープロソフトをビルボード
の2DCGで2000体表示できるものに作り替えた。

 下にある画像の上がポリゴンCGが300体で、下がビルボー
ドの2DCGで、ここには1200体を表示している。


 300体では、戦闘シーンを作ろうとするとカメラを近づけて
表示の少なさをごまかさなければいけないが、2000体なら
全体を表示しても迫力がある。

 ビルボードは2DCGなのだが、カメラを移動させた時に表
示を変えることで、3DCGのように見える。こうしたため20
00体を表示させると異常に処理速度が遅くなる。

 それにキャラの細かな動き(ポーズ)をムープロ利用者が
修正することができなくなった。

 今のところキャラをアニメさせることはできないが、やろうと
思えばできる。しかし、表示はもっと遅くなるだろう。

 どちらにしても一長一短があり、これがパソコンか私の能力
の限界かもしれない。