関ヶ原の合戦に特化したムープロで、通説とは違う合戦の
経過を再現してみようと思う。
慶長5年(1600年)9月15日
西軍は関ヶ原に鶴翼の陣で布陣した。
陣形には、武将がどこでも勝手に布陣していいというもの
ではない。
中央には総大将が布陣することになっている。そこに宇喜
多秀家が布陣したことで、この合戦の総大将は秀家になった
ことが分かる。
秀家は若いが、豊臣秀吉の養子で、五大老のひとりでもあ
ることから、総大将にもっともふさわしい。
通説では、毛利輝元を西軍の総大将としているが、毛利家
は秀吉を恨むことはあっても、豊臣家を守る義理などさらさら
ない。
西軍に属する武将が多くいる西で、東軍に味方すると言え
ば、その時点で袋叩きにあう。だから加藤清正のような勇将
でもない限り、西軍のフリをしたり、態度をはっきりしないの
は当たり前で、毛利輝元は、秀吉から西の統治を任されてい
たことから、一応、豊臣秀頼を守るという名目で、一番安全な
大坂城に入ったと考えるのが自然だ。
陣の左翼側には石田三成、島津義弘などの武将が布陣し
た。
これも通説では、石田三成を首謀者としているが、西軍が
三成に期待したのは何か?
三成は戦ではもっぱら軍資金や兵糧の調達に当たってい
て、あまり勇将のイメージはない。
この時の西軍も石田三成の集めた軍資金や兵糧があっ
たからこそ、天下分け目の合戦に参加する気になったのだ
ろう。
陣の右翼側には大谷吉継などが布陣した。