関ヶ原の合戦を扱った映画やドラマでは、小早川秀秋が
布陣した松尾山は、何もない広場のような所に陣幕をはっ
ただけになっている。しかし、この山には城があった。
(下の画像では城の骨組みだけになっているが、本当はちゃ
んとした城があり、周りは土塁で囲まれていた)
松尾山城は過去、浅井長政が築城した後、織田信長の
近江侵攻で開城した。そして近江平定後に廃城となってい
た。西美濃最大級の山城だったといわれている。
たんに山に布陣するのと城に入るのでは、意味がまっ
たく違う。この城に西軍が籠城したのでは、双方にもっと
多くの戦死者が出て、長期戦になっていた可能性がある。
映画やドラマでは予算がないから、城や土塁を再現しな
かったのだろうが、これが今日まで歴史を間違ったまま伝
えることになった。
合戦が起きる前に石田三成は、この城を西軍の伊藤盛
正らにより改修していたことから、この地が決戦の地にな
ることは、早くから想定していたと思われる。当然、長期戦
になることを考えて兵糧や軍資金なども運び入れていただ
ろう。
西軍としては、この松尾山城に毛利輝元を入城させるつ
もりだったのではないだろうか?
ところが輝元は大坂城から動こうとしない。
輝元の名代としてやって来た輝元の養子、秀元と吉川
広家の部隊は東軍側にある南宮山に布陣した。
西軍はしかたなく、伊藤盛正の少数部隊を布陣させた。