山のふもとの中山道、伊勢街道沿いに布陣して、陣形が
まるで整っていない。
到着が遅れている家康の息子、秀忠を待って陣形を整
えるつもりだったのではないだろうか。
天候が暴風雨なので、西軍が攻めてくることはないと考
えていたのかもしれない。
ところで、家康の側には多くの外国人が付き添っていた。
この年の3月に漂着した、オランダ船から手に入れた大
砲が持ち込まれていたからで、その船に乗っていたのが、
後に三浦按針となるイギリス人の航海士、ウイリアム・ア
ダムス。そして現在の八重洲の語源になったヤン・ヨウス
テンなどもいて、ポルトガル人のイエズス会宣教師が通訳
となっていた。
大砲は19門もあったが、秀忠のほうにも何門か持たせ
ていただろうから、関ヶ原にあったのはそれ以下だろう。
秀忠の到着が遅れたのは、この大砲のせいだったのだ
ろう。
小早川秀秋が松尾山城に入ったことで、家康の陣の背
後にいた毛利秀元と吉川広家の部隊は孤立し、東軍に味
方せざるおえない状態になった。