2011年2月12日土曜日

思わぬ苦戦

 戦功をあせった東軍・徳川家臣の部隊は、我先にと西
軍に攻め込んだ。

 ところが、先の「パーティクルは使える」で書いたよ
うに島津部隊が火箭という現在のロケット弾のような武
器で迎撃した。

 この威力は絶大で、優勢の東軍を苦しめ、戦を膠着状
態にした。

 通説では松尾山の小早川秀秋は、東軍と西軍のどちら
が勝つか分からなくなったので、出陣しなかったことに
なっているが、そもそもこの合戦は小早川秀秋がメイン
の戦ではない。

 東軍が無理な攻撃を開始したことが苦戦の原因で、そ
れを小早川秀秋に責任をなすりつけるのは間違いだ。

 小早川秀秋が出陣しなかったのには、松尾山城を西軍
に奪い返されては意味がないので、城を守っていたと考
えられる。


 もう一つに、城にあった軍資金や兵糧などを別の場所
に持ち出していた可能性がある。

 この合戦の後、石田三成の居城、佐和山城を東軍が調
べると、質素な生活をしていて財宝などはなかったと言
われている。このことが石田三成の清貧というイメージ
になっているが、佐和山城が攻められるのは想定済みで、
すべての財宝を軍資金として松尾山城に運び込んでいた
ほうが、安全と考えてもおかしくない。

 その根拠は、小早川秀秋が合戦の功により領地とした
備前、美作を短期間で復興させているからだ。

 備前に移った秀秋は、荒廃していた岡山城を改築し、
以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させた。そし
て検地の実施、寺社の復興、道の改修、農地の整備など
をおこない、急速に近代化させている。

 これらの資金はどこから調達したのか?

 関ヶ原の合戦で、軍資金は使い果たしたはずで、本家
の毛利家は所領が激減しているので支援は受けられない。

 徳川家康が支援するはずもなく、自前でやるとすれば、
松尾山城にあった軍資金を利用したと考えるのが自然で
はないだろうか?