2011年2月26日土曜日

苦戦する小早川秀秋の部隊

 大谷吉継は、松尾山から降りてきた小早川部隊と正
面攻撃を決意する。

 大谷部隊の兵数は1500人、それに対して小早川部
隊の兵数は10倍の15000人。

 大谷部隊の側にいる4隊は、徳川家康に内通してい
るはずの赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治。
(ただし、朽木は家康と事前に内通していなかった。そ
のため合戦の後、領地を減らされている)


 隊列を整えた小早川部隊は、ここで不穏な行動に出
る。


 全部隊が一斉攻撃するのではなく、小隊に分かれて、
正面攻撃を開始する。


 このことを通説では小早川部隊に内紛があり、統率
がとれず、松野重元(大谷隊の側面の山に待機してい
る部隊)などは、豊臣家を裏切れないと言って闘わなかっ
たとしている。


 小隊に分かれて攻撃するので、大谷隊の死を覚悟し
た奮戦に負け、次々に後退していく小早川部隊。


 しかし、このことが大谷隊を移動させ、待機していた
赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4隊が、
大谷隊を包囲することができる状態にした。


 戦に強いというのは闘いに勝つということではない。
いかに損害を出さず、目的を達成するかだ。


 東軍に寝返った赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、
脇坂安治の4隊が攻撃しやすい状態にするために、
小早川隊はおとり役になったのだ。
 大谷吉継が健常者ならこの程度の戦法はすぐに
見抜けたはずだが、この時、すでに目が見えないよ
うな状態で、幼い頃の秀秋のイメージが強かったこ
とも判断を狂わせたのかもしれない。


 このように、小早川隊が出撃したから東軍の勝利
という単純なものではなかった。
 通説がいかにデタラメかが、このことからもよく分か
る。