2011年3月26日土曜日

まさしくムープロのUnity

 Blender2.56のゲームエンジンは物足りなかったのだが、
ゲームソフトを制作する「Unity」というソフトがあることが
分かった。しかも古いバージョンは無料で使える。


 上の画像のようにリアルな風景が簡単に作れた。

 ソフトをインストールして最初に観られる風景では、下
の画像のように鳥の群れが舞っている。

 キャラなどはBlenderで作ったものが使えるが、「Asset
Store」というサイトがあり無料や有料のキャラが用意さ
れている。

 このソフトは私の考えていたムープロを実現していると
いっていい。

 他にも調べると韓国では2000人対2000人の戦闘表
示が可能なゲームエンジンも登場していた。

 最近のゲームは日本のものよりも海外のものが目立
つようになってきた。それはこうしたソフトを使って、だれ
でもすごいゲームが作れる環境が整っているからだろう。

 日本はこうしたソフトの必要性にまったく理解がない。

 ということでムープロはすでに実現されていた。そして
海外ではこれらを使って映画を制作するマシニマ(マシン
シネマ)というのも始まっている。

2011年3月19日土曜日

ゲームエンジンを試す

 Blender2.56のゲームエンジンでキャラの殺陣を試して
みた。


 以下がその動画(youtube)だ。

Blender2.56のゲームエンジンを使った殺陣のテストです。


 動画キャプチャソフトを使っているので、少しカクカクし
た表示になる。

 群衆にするとかなり重たくなり、動きが遅くなるので、ア
ニメーションとしてレンダリングできないと使えない。

2011年3月12日土曜日

今度はモーションパスを使ってみた

 前回のパーティクル(Boids)では、群集の移動しかで
きないので、モーションパスというパス(線)に沿ってキャ
ラを移動させるパスアニメーションとうのを試してみた。


 以下がその動画(youtube)だ。

Blender2.56のモーションパスを使った群集戦闘のテストです。


 これはあらかじめキャラに色々な動作を設定して、そ
の動作を組み合わせて、走って闘うまでの動作を1体だ
け作る。

 それを複製して群集にしている。そのためみんな同じ
ような動きになっている。

 レンダリングには約4時間かかった。

 もう少し多くのキャラに違う動作を設定して、複製すれ
ば、それらしい群集の戦闘シーンになる。

2011年3月5日土曜日

いつの間にか使いやすくなったBlender

 関ヶ原の合戦の検証はひとまず終えて、色々調べ
ていると、無料で商業映画まで作成出来る3DCGソ
フト「Blender」が2.56にバージョンアップして、私が知っ
ている以前のものより使いやすくなっていた。

 なくなっていたゲームエンジンもいつの間にか復活
していた。

 私の考えているムープロよりさらに上をいくソフトで
「素人が手を出すな」といったおもむきは相変わらず
だが、自分でムープロソフトを作るよりは、映画制作
に一歩近づく。

 そこで、英語の壁はあるが使ってみることにした。

 まず、パーティクル(Boids)という生物が獲物を捕ま
えるような振る舞いができる方法があることが分かり、
これを群集歩行に応用したものを作ってみた。


 以下はその動画をyoutubeにアップしたものだ。

Blender2.56のパーティクル(Boids)を使った群集歩行のテストです。


 これは100人対100人がそれぞれの目標(遠くにある)
を目指して走っているもので、すれ違う瞬間までの動画
で、格闘はできない。
 たった数秒のレンダリングに約3時間かかった。

2011年2月26日土曜日

苦戦する小早川秀秋の部隊

 大谷吉継は、松尾山から降りてきた小早川部隊と正
面攻撃を決意する。

 大谷部隊の兵数は1500人、それに対して小早川部
隊の兵数は10倍の15000人。

 大谷部隊の側にいる4隊は、徳川家康に内通してい
るはずの赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治。
(ただし、朽木は家康と事前に内通していなかった。そ
のため合戦の後、領地を減らされている)


 隊列を整えた小早川部隊は、ここで不穏な行動に出
る。


 全部隊が一斉攻撃するのではなく、小隊に分かれて、
正面攻撃を開始する。


 このことを通説では小早川部隊に内紛があり、統率
がとれず、松野重元(大谷隊の側面の山に待機してい
る部隊)などは、豊臣家を裏切れないと言って闘わなかっ
たとしている。


 小隊に分かれて攻撃するので、大谷隊の死を覚悟し
た奮戦に負け、次々に後退していく小早川部隊。


 しかし、このことが大谷隊を移動させ、待機していた
赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4隊が、
大谷隊を包囲することができる状態にした。


 戦に強いというのは闘いに勝つということではない。
いかに損害を出さず、目的を達成するかだ。


 東軍に寝返った赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、
脇坂安治の4隊が攻撃しやすい状態にするために、
小早川隊はおとり役になったのだ。
 大谷吉継が健常者ならこの程度の戦法はすぐに
見抜けたはずだが、この時、すでに目が見えないよ
うな状態で、幼い頃の秀秋のイメージが強かったこ
とも判断を狂わせたのかもしれない。


 このように、小早川隊が出撃したから東軍の勝利
という単純なものではなかった。
 通説がいかにデタラメかが、このことからもよく分か
る。

2011年2月19日土曜日

小早川秀秋の出陣

 小早川秀秋の部隊が松尾山城から軍資金や兵糧を
運び出す4時間がたっても勝敗はつかず、徳川秀忠も
到着しない。

 徳川家康は、このままでは劣勢になると考え、陣の
移動を行い、街道沿いに布陣した。

 家康にしてみれば、この合戦で勝たなくても秀忠と合
流して、再度合戦をするという余裕がある。

 それでは小早川秀秋は、せっかく松尾山城を無血で
奪って手柄を上げたのに、それがふいになる。また、
家康が撤退すると西軍の総攻撃を受けることになる。

 そこで松尾山を降りることにした。


 映画やドラマなどでは、小早川部隊が松尾山を駆け
降り、西軍を奇襲攻撃をするようなシーンになっている
が、松尾山のふもとでは、西軍の大谷吉継が小早川秀
秋が攻撃してくることを警戒している。だから急いで降
りる必要はない。



 ゆっくりと松尾山を降り、部隊の隊列を整えたと考え
られる。


 小早川秀秋を警戒していた大谷吉継は、秀秋のこと
を子供の頃から知っていて、歳の離れた弟のように思っ
ていた。
 秀秋にしても兄のように慕っていた吉継と闘うことは
不本意だったろう。
 秀秋の裏切りと非難する前に徳川家康の対応のま
ずさを非難するべきだ。

2011年2月12日土曜日

思わぬ苦戦

 戦功をあせった東軍・徳川家臣の部隊は、我先にと西
軍に攻め込んだ。

 ところが、先の「パーティクルは使える」で書いたよ
うに島津部隊が火箭という現在のロケット弾のような武
器で迎撃した。

 この威力は絶大で、優勢の東軍を苦しめ、戦を膠着状
態にした。

 通説では松尾山の小早川秀秋は、東軍と西軍のどちら
が勝つか分からなくなったので、出陣しなかったことに
なっているが、そもそもこの合戦は小早川秀秋がメイン
の戦ではない。

 東軍が無理な攻撃を開始したことが苦戦の原因で、そ
れを小早川秀秋に責任をなすりつけるのは間違いだ。

 小早川秀秋が出陣しなかったのには、松尾山城を西軍
に奪い返されては意味がないので、城を守っていたと考
えられる。


 もう一つに、城にあった軍資金や兵糧などを別の場所
に持ち出していた可能性がある。

 この合戦の後、石田三成の居城、佐和山城を東軍が調
べると、質素な生活をしていて財宝などはなかったと言
われている。このことが石田三成の清貧というイメージ
になっているが、佐和山城が攻められるのは想定済みで、
すべての財宝を軍資金として松尾山城に運び込んでいた
ほうが、安全と考えてもおかしくない。

 その根拠は、小早川秀秋が合戦の功により領地とした
備前、美作を短期間で復興させているからだ。

 備前に移った秀秋は、荒廃していた岡山城を改築し、
以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させた。そし
て検地の実施、寺社の復興、道の改修、農地の整備など
をおこない、急速に近代化させている。

 これらの資金はどこから調達したのか?

 関ヶ原の合戦で、軍資金は使い果たしたはずで、本家
の毛利家は所領が激減しているので支援は受けられない。

 徳川家康が支援するはずもなく、自前でやるとすれば、
松尾山城にあった軍資金を利用したと考えるのが自然で
はないだろうか?

2011年2月5日土曜日

陣形が整わない東軍

 一方の東軍は、徳川家康が桃配山に布陣。その他は
山のふもとの中山道、伊勢街道沿いに布陣して、陣形が
まるで整っていない。


 到着が遅れている家康の息子、秀忠を待って陣形を整
えるつもりだったのではないだろうか。


 天候が暴風雨なので、西軍が攻めてくることはないと考
えていたのかもしれない。

 ところで、家康の側には多くの外国人が付き添っていた。

 この年の3月に漂着した、オランダ船から手に入れた大
砲が持ち込まれていたからで、その船に乗っていたのが、
後に三浦按針となるイギリス人の航海士、ウイリアム・ア
ダムス。そして現在の八重洲の語源になったヤン・ヨウス
テンなどもいて、ポルトガル人のイエズス会宣教師が通訳
となっていた。

 大砲は19門もあったが、秀忠のほうにも何門か持たせ
ていただろうから、関ヶ原にあったのはそれ以下だろう。
 秀忠の到着が遅れたのは、この大砲のせいだったのだ
ろう。

 小早川秀秋が松尾山城に入ったことで、家康の陣の背
後にいた毛利秀元と吉川広家の部隊は孤立し、東軍に味
方せざるおえない状態になった。


 これで勝利を確信した家康は、本来なら西軍に降伏をさ
せ、戦を回避するべきだった。ところが、圧倒的優勢になっ
たことで、徳川家の力を見せつけ、一気に天下を取ろうと
考えたのか、攻撃を開始してしまった。

2011年1月29日土曜日

小早川秀秋の無血入城

 西軍・伊藤盛正の少数部隊が布陣した松尾山城は、ほ
とんど無防備の状態だったと考えられる。それほど西軍
に味方する大名は少なかった。

 だからこそ病気を理由に出陣していなかった小早川秀
秋の部隊、兵15000人がやって来た時は、心強い援軍
が来たと思っただろう。


 秀秋は、もとは豊臣秀吉の養子で、西軍の伏見城攻め
にも加わっている。

 城攻めというのは時間がかかり、将兵に多大な損害が
でる。
 最初から東軍に味方するためにやって来た小早川秀秋
は、伊藤盛正に勘違いをさせておくことが、無用な闘い
を避け、南宮山の毛利部隊を孤立させて西軍に寝返れな
くし、この戦の勝敗を決定づけることにもなる。

 伊藤盛正は、相手が大部隊でもあり、抵抗することもで
きず、あっさりと城をあけわたした。



 兵法を知らない人には、まったく理解できないだろうが、
西軍に味方すれば、豊臣家を守ることになると単純に考
えるのは間違いだ。

 戦に勝つほうに味方し、存在感を示すことが重要で、そ
の目的を達成しない戦は、ただの人殺しにすぎない。

 小早川秀秋が松尾山城に無血入城したことで、東軍に
味方することは分かったはずで、東軍の勝利は確実なも
のになった。

2011年1月22日土曜日

松尾山には城があった

 関ヶ原の合戦を扱った映画やドラマでは、小早川秀秋が
布陣した松尾山は、何もない広場のような所に陣幕をはっ
ただけになっている。しかし、この山には城があった。
(下の画像では城の骨組みだけになっているが、本当はちゃ
んとした城があり、周りは土塁で囲まれていた)


 松尾山城は過去、浅井長政が築城した後、織田信長の
近江侵攻で開城した。そして近江平定後に廃城となってい
た。西美濃最大級の山城だったといわれている。

 たんに山に布陣するのと城に入るのでは、意味がまっ
たく違う。この城に西軍が籠城したのでは、双方にもっと
多くの戦死者が出て、長期戦になっていた可能性がある。

 映画やドラマでは予算がないから、城や土塁を再現しな
かったのだろうが、これが今日まで歴史を間違ったまま伝
えることになった。

 合戦が起きる前に石田三成は、この城を西軍の伊藤盛
正らにより改修していたことから、この地が決戦の地にな
ることは、早くから想定していたと思われる。当然、長期戦
になることを考えて兵糧や軍資金なども運び入れていただ
ろう。

 西軍としては、この松尾山城に毛利輝元を入城させるつ
もりだったのではないだろうか?
 ところが輝元は大坂城から動こうとしない。

 輝元の名代としてやって来た輝元の養子、秀元と吉川
広家の部隊は東軍側にある南宮山に布陣した。

 西軍はしかたなく、伊藤盛正の少数部隊を布陣させた。

2011年1月15日土曜日

関ヶ原の合戦を検証

 関ヶ原の合戦に特化したムープロで、通説とは違う合戦の
経過を再現してみようと思う。

 慶長5年(1600年)9月15日

 西軍は関ヶ原に鶴翼の陣で布陣した。

 陣形には、武将がどこでも勝手に布陣していいというもの
ではない。

 中央には総大将が布陣することになっている。そこに宇喜
多秀家が布陣したことで、この合戦の総大将は秀家になった
ことが分かる。

 秀家は若いが、豊臣秀吉の養子で、五大老のひとりでもあ
ることから、総大将にもっともふさわしい。

 通説では、毛利輝元を西軍の総大将としているが、毛利家
は秀吉を恨むことはあっても、豊臣家を守る義理などさらさら
ない。

 西軍に属する武将が多くいる西で、東軍に味方すると言え
ば、その時点で袋叩きにあう。だから加藤清正のような勇将
でもない限り、西軍のフリをしたり、態度をはっきりしないの
は当たり前で、毛利輝元は、秀吉から西の統治を任されてい
たことから、一応、豊臣秀頼を守るという名目で、一番安全な
大坂城に入ったと考えるのが自然だ。

 陣の左翼側には石田三成、島津義弘などの武将が布陣し
た。

 これも通説では、石田三成を首謀者としているが、西軍が
三成に期待したのは何か?

 三成は戦ではもっぱら軍資金や兵糧の調達に当たってい
て、あまり勇将のイメージはない。

 この時の西軍も石田三成の集めた軍資金や兵糧があっ
たからこそ、天下分け目の合戦に参加する気になったのだ
ろう。

 陣の右翼側には大谷吉継などが布陣した。

2011年1月8日土曜日

パーティクルは使える

 キャラを2000体表示させることを優先したため、静止画
となり、物足りなさを感じるが、試しにパーティクルを使って
みると、意外と面白いものができた。
 下の画像では大砲の弾のように見えるが、これは火箭の
閃光と爆発を表現したものだ。

 関ヶ原の合戦では、大砲が準備されていたといわれている
が、当時の天候は暴風雨で、その後、濃霧になる。戦闘の
終盤では晴れたかもしれないが、大砲の威力はそれほど発
揮できなかっただろう。
 ところが大砲よりも強力な武器を準備していた可能性があ
る。
 西軍の多くの武将が朝鮮出兵に参加し、明・朝鮮連合軍の
利用した火箭という、現在のロケット弾のような武器で攻撃さ
れた経験をしている。
 日本は朝鮮から陶器や鋳造の技術者などを拉致してきた
ことが知られているが、火箭などの武器を作れる技術者こそ
もっとも重要な人材だったはずで、拉致してきた可能性は高
い。
 その証拠に関ヶ原に近い地域では、現在でも「龍勢(流星)
祭り」として自家製ロケットを打ち上げる祭りが行われている。
 これが火箭を平和利用したものだ。
 関ヶ原の合戦でも、石田三成が、毛利軍や小早川軍に出
撃を促すために、火箭を狼煙がわりに利用したといわれて
いる。ただ、生死がかかっている合戦で最強の武器を狼煙
がわりにするだろうか?
 島津軍は、石田三成と意見対立があり、出撃しようとしな
かったとされているが、火箭を発射させていたとすれば、出
撃する必要はない。
 毛利軍、小早川軍が出撃せず、劣勢だったはずの西軍が
こう着状態までもちこんだのは、この火箭の効果があったと
思われる。
 こうした今までの通説の間違いを正すためにもムープロの
ようなソフトが必要だと思う。

2011年1月1日土曜日

作り替えたムープロソフト

 ポリゴンCGを300体表示するムープロソフトをビルボード
の2DCGで2000体表示できるものに作り替えた。

 下にある画像の上がポリゴンCGが300体で、下がビルボー
ドの2DCGで、ここには1200体を表示している。


 300体では、戦闘シーンを作ろうとするとカメラを近づけて
表示の少なさをごまかさなければいけないが、2000体なら
全体を表示しても迫力がある。

 ビルボードは2DCGなのだが、カメラを移動させた時に表
示を変えることで、3DCGのように見える。こうしたため20
00体を表示させると異常に処理速度が遅くなる。

 それにキャラの細かな動き(ポーズ)をムープロ利用者が
修正することができなくなった。

 今のところキャラをアニメさせることはできないが、やろうと
思えばできる。しかし、表示はもっと遅くなるだろう。

 どちらにしても一長一短があり、これがパソコンか私の能力
の限界かもしれない。